1958年
世界最古のゲーム「Tennis for Two(テニスフォートゥー)」
世界最古のテレビゲームとされているゲーム。開発は原爆などの開発にも関わっていたヒギンボーサム博士が研究を一般人に楽しく理解してもらうために3週間で作成したのが「Tennis for Two」です。
ゲーム内容は2人で遊べるテニスゲームで、操作はつまみを回して角度を調整し、ボタンで打つ非常にシンプルな作りですが、玉の挙動がしっかりしてるので意外と面白そうです。
このゲームは研究施設がある地元の展示会のみの公開で、非常に限られた人にしかプレイされていませんでした。実際に1982年に雑誌で紹介されるまでは、ほとんど知られてなかった程です。
ブロック崩し+さんでTennis for OneをJavaアプレットで再現してありますの遊んでみたい方は是非!
http://homepage2.nifty.com/nsh/java/tennis.html
1962年
最古のシューティングゲーム「Spacewar!(スペースウォー)」
当時マサチューセッツ工科大学の学生で鉄道模型クラブにいたスティーブ・ラッセル氏が作った世界初のシューティングゲーム。ラッセルはデック社のPDP-1と言うコンピューターが大学に置かれる様になると、これで何かを作りたいと思ったのがきっかけである。作られたゲームは穴の空いた紙テープがメディアになっており、複写機でプログラムを容易に複製することが出来た。ラッセルは複製を禁止することはなかったので、PDP-1がある大学などの施設で広まった。このゲームが後の1971年に登場する世界初のアーケードゲーム「コンピュータースペース」となる。
Spacewar!のHTML5版が下記でプレイできます。
http://spacewar.oversigma.com/html5/
参照サイト
http://ja.wikipedia.org/wiki/スペースウォー!
1969年
世界最古のゲーム機「ブラウンボックス」が完成
1966年夏にラルフ・ベアがテレビを使ってゲームが出来ないか考えたのが始まり。同年9月に企画書3枚と手書きのメモ1枚を作成。4枚の紙についてはラルフ・ベアのサイトで見ることが出来る。
1967年5月に二人用のゲームを作成。こちらはラルフ・ベア氏が無くしてしまって現存せず。
1967年6月には試作機として光線銃なども作られた。
1969年1月には完成したブラウンボックスをケーブルTV会社に売り込むが上手くいかず、TV等を製造しているメーカーに売り込みに行く。何故ケーブルTV会社に売り込みに行ったかと言うと、オーバレイのシートではなく(オーバレイのシートは1972年のOdysseyで解説)、ケーブルTVを使ってリアルな背景を写した状態でゲームをプレイしたいという思いがあり、それを実現するにはケーブルTV会社しかなかったからである。これが実現していたらゲーム史は大きく変わっていたかもしれない。
本体は木箱の様な形で2つのコントローラーが付属されている。本体の形と色からブラウンボックスと名付けられた。遊べるゲームはピンポン、テニス、ハンドボール、バレーボール、チェイスゲーム、光線銃のゲームの合計6本でした。
ブラウンボックスではサウンドと色がついていたが、製品版のオデッセイではコストの関係上カットされている。
参照サイト
http://www.ralphbaer.com/video_game_history.htm
1971年
スタートレック
スタートレック題材としたシミュレーションゲーム(テキストゲーム)が登場!コマンド入力式のゲームで日本でも遊ばれた。
世界初のアーケードゲーム
ノーラン・ブッシュネルが「スペースウォー」の魅力にふれて、これをアーケード施設で遊べたらないいなと考えたのが事の発端。1960年台では半導体などの価格が高かったが1970年に入り半導体の価格が低下、それを気に制作に着手する。制作完了後、近くのバーに置かせてもらうが、コンピューターとは無縁の労働者などには操作が難しく、まったく売れずに終わる。
実はこのノーラン・ブッシュネルが翌年1972年にオデッセイを見て、世界初のゲームメーカー「アタリ」創業し「PONG」を作る。
参照:http://ja.wikipedia.org/wiki/コンピュータースペース
参照:https://www.retromags.com/gallery/image/9796-computer-space-1971/
1972年
5月 マグナボックス社からOdyssey(オデッセイ)が発売!
世界初の家庭用ゲーム機と言われています。CPUを搭載していなくアナログ回路で電子ゲーム機能を実現している。テレビに映し出せるものはすべて正方形の白いドットのみで、なんとテレビにオーバレイと言われる半透明の紙を貼り付けて遊ぶゲームです。サウンドも一切なく、点数なども表示する機能がないので、自分で計算する必要がある。ムービーを見ていもらえば分かりますが、ボードゲームで使いそうなカード類なども付属されている。ゲームの切り替えはTVに付けるオーバレイの他に、ROMカートリッジの様な物を差し替えることで内部の配線を変え別のゲームが楽しめる仕様になっている。このカートリッジで機能を変える概念は後に登場予定のファミコンなどで採用されている。初年度での売上台数は10万台で、最終的には33万台売れた。価格は$100で日本では未発売。
洗車の入氏のゲームグラフィックTVでも詳しく紹介されています。
オデッセイのテレビCM
https://youtu.be/H2EIsnr_cv4
世界初の光線銃
オデッセイではショットガン風のライトガンを使ったシューティングゲームも発売している。こちらは8万台売れました。下記は実際にオッデセイのライトガンを使ったムービーです。
ラルフ・ベア
ドイツ生まれのアメリカ人発明家で、オッデセイの生みの親であり、コンピューターゲームに多大な影響を与えた人物です。
その貢献が評価されIEEEと言われる電気・電子技術の学会で名誉会員にも選ばれていることから、そのスゴさが伺える。
2005年には、アメリカのゲーム専門チャンネル G4 のビデオゲーム賞 Legend Award を受賞した。
参照サイト
http://www.pong-story.com/odyssey.htm
http://en.wikipedia.org/wiki/Magnavox_Odyssey
http://ja.wikipedia.org/wiki/オデッセイ (ゲーム機)
http://www.giantbomb.com/odyssey/60-74/ http://ja.wikipedia.org/wiki/ラルフ・ベア
アタリ社がアーケードゲーム「PONG」を発売
1972年にスペースウォーを作ったブッシュネルがガレージオフィスに世界初のビデオゲーム会社を設立!2万ドルをかけて、1972年11月にアーケードゲームとして「PONG」を発売し大ヒットを飛ばす!当時アーケードではピンボールが流行っておりPONGはひっそりと置かれていたが、ピンボールが1日$50稼げればいい方だったのに対して、PONGは2〜4倍高かい売上だった。
ブッシュネルはポンを作成するきっかけは、展示会でオデッセイのテニスゲームを見たことにはじまります。これを見て衝撃を受けたブッシュネルは、プログラマーにどういったゲームなのかを説明し作らせることになる。この見たものを話で伝えたことによって、プログラマー独自の解釈と想像でオデッセイのテニスゲームに似ているが、微妙に違うゲームを生み出す。ポンとの違いは、オデッセイでは玉が45度の角度しか跳ね返さず速度も一定だったが、アタリのポンでは玉の速度や跳ね返る角度が一定ではなく、サウンド、スコア表示などもあり面白かった。もしブッシュネルが玉の跳ね返る角度や速度の話までしっかり話していたら注文通りにしか作らず、ここまで大ヒットしたポンではなかったかもしれない。
アタリの公式サイトではクラシックゲームをリメイクしたゲームが無料で遊べる。
http://atari.com/arcade#!/arcade/atari-promo
参照:http://ja.wikipedia.org/wiki/ポン (ゲーム)
1973年
日本初のコンピューターゲームが登場
PONGをパクってセガが「ポントロン」、タイトーが「エレポン」を発売!日本初のコンピューターゲームはパクリなのは非常に興味深いです。
世界初の迷路ゲーム「Gotcha」
アタリ社から発売!
世界初のレースゲーム「Space Race」がアタリから登場!
こちらはアタリ社の2作品目のゲームです。
世界初のFPSゲーム「Maze War」
世界初のFPS(一人称)ゲームでFPSへの影響だけではなく、ウルティマ、ウィザードリィ、ダンジョンマスター、ファンタシースター、Eye of the BeholderなどのRPGにも多大な影響を与えている。他にも世界初が多数ありゲームの根本を気づき上げたゲームの1つで、画面を見れば分かるがキャラクターが生き物の様な目のグラフィックをしており、今までの宇宙船や線、点とはかなり異なるため、世界初のドット絵とされている。
さらにマルチプレイにも対応しており、Peer to Peerでの世界初対戦、観戦モード、インターネットを介した初のネットワーク対応ゲーム、オンラインチャット機能などを搭載した初のゲームで、今のオンラインゲームの機能が一通り揃った、原点ではないかと思われる。
またマップに相手の位置が表示される様にするチート行為なども行なわれたため、不正行為を防止するためにソースコードを暗号化したりと対策がなされた。
https://youtu.be/G-GY3bO0YsI
1974年
世界初の3D多人数参加型シューティングゲーム「Spasim」
このゲームは4つの惑星に別れ各惑星に最大8人のプレイヤーが参加可能な最大32人のマルチプレイヤーゲームとなっている。プレイヤーはワイヤーフレームの宇宙船で描かれ、1秒間に1回お互いの位置が更新された。
1975年
世界初のアドベンチャーゲーム『Colossal Cave Adventure』が登場!
世界初のアドベンチャーゲームとされているゲームです。
Version 0と言うサイトでアドベンチャーの日本語版が置いてありますので、興味ある方はプレイしてみてください。
http://www16.ocn.ne.jp/~ver0/pc/index.html#advent
世界初のRPG?『ダンジョン』が登場。
1975年か1976年に作られたテキストアドベンチャーゲーム!
のちのゾークなどに派生していく。
こちらもアドベンチャー同様「Version 0」で公開されている。
http://www16.ocn.ne.jp/~ver0/pc/index.html#dungeon
現存する最古のDungeon Crawler RPG「PEDIT5」
1974年にTSR社より発売された世界初(コンピューターゲームとしてではなく)のテーブルトークRPG「ダンジョンズ&ドラゴンズ」に多大な影響を受けている。この頃この様なゲームが出ており「PEDIT5」が世界初かは断言できてないが、世間に一番広まり、現存してプレイ可能な最古のCRPGは「PEDIT5」である。
レベル、経験値、HP、攻撃力、NPCなどが登場した最初のコンピューターRPGとも言われている。
参照サイト
http://en.wikipedia.org/wiki/Pedit5
http://en.wikipedia.org/wiki/Dnd_(video_game)
http://www.giantbomb.com/pedit5/61-29799/
エポック社が日本初の家庭用ゲーム機「テレビテニス」を発売!
1975年9月12日にエポック社より発売された「テレビテニス」が日本初の家庭用ゲーム機である。こちらはマグナボックス社と技術提供し作成されたので、オデッセイ版のPONGが入ってる。その為、速度が一定や跳ね返りが45度だけなどの非常に微妙なゲーム内容となっている。改善されてる点と言えば、本体中央部に得点表示がありダイヤルを回すことによって、得点を手動でいれられるのと、効果音がついている点です。ちなみにコントローラーは本体に付いている。画像のテレビと本体の間にある物体はアンテナで、なんとこのアンテナをテレビに取り付け、本体から出ている電波をキャッチして映像を映し出す、ワイヤレスタイプと非常に珍しいタイプのゲーム機である。価格は19,500円で約1万台が販売されたが1万台では全然売れてかった商品であろうと憶測する。
参照サイト
http://ja.wikipedia.org/wiki/テレビテニス
AtariのPONGが家庭用として登場
1974年にAtariのエンジニア「Harold Lee」はテレビに接続する家庭用のポンを提案。会社の美人女性従業員の名前「Darlene」と言うコード・ネームを付けて開発がスタート!
Alcorn、Harold Lee、Bob Brownの3人で作られたチップは1974年後半に完成した。消費者向けとしては最高性能のチップであった。
1975年ニューヨークで開かれたおもちゃフェアでプロトタイプ公開し、玩具メーカーからかなりの注目を浴びるものの、契約をクローズドさせるには至らなかった。契約に至らなかった原因は、今でもそうだがクローズドする際にはブースにある個室などでゆっくり椅子に座って行うものだが、当時Atariはブースに個室が必要だと知らずに、個室がないブースで商品を紹介していたのが原因だと言われている。
1975年秋にようやく大手百貨店のシアーズとの契約にこぎ着け、クリスマス商戦に参加することになるがシアーズの独占販売という縛りがあった。
当時オデッセイが販売中止などビデオゲームに陰りが見えていたが、全米各地のシアーズ900店舗で価格$98,95で販売クリスマス商戦でホーム・ポンは大ヒットし、生産した15万台を見事完売させた。
ホーム・ポンの箱写真
シアーズの独占販売と言うことで、「Sears TELE-GAMES PONG」となっている。Atariの自社ブランド製品としては翌年1976年に販売されている。
参照:http://ja.wikipedia.org/wiki/ホーム・ポン
http://en.wikipedia.org/wiki/Pong
http://www.miamibasshistory.com/wiki/bassipedia/miami-bass/origins-and-influences/hip-hop/old-school-electro/video-games/#1976%20Crash
第1世代の終了
ここで第1世代は一応終了です。Odyssey、PONGでTVゲームが消費者に認知され第2世代に引き継がれていきます。
第2世代ではROMカセットを交換して様々なゲームを遊べるチャンネルFやAtari2600が登場します。
1976年
世界初のロムカートリッジ式家庭用ゲーム機「Channel F」が発売。
世界初のロムカートリッジ式家庭用ゲーム機と言う以外あまり語られてない不運なゲーム機。その後に登場するAtari2600に撃沈される。
日本での販売もあったが業務用としての販売で当時の価格で128,000円と高級ゲーム機となっている。ちなみにアメリカでは$169.95で25万台販売した。ソフトの価格はアメリカでソフトは$19.95、日本で1万円前後とこれまた日本ではバカ高い!
マイクロプロセッサーを使用した初の家庭用ゲーム機でもある。
開発したのはフェアチャイルド社である。
アタリの大ヒットゲーム「Breakout」が発売!
アタリ社がPONGに続いて大ヒットを飛ばしたゲームで、日本ではブロックくずしと言わるゲーム。無機質な棒がブロックを壊してるように見えるが、アーケード機のロゴなどをよく見ると、実は囚人がハンマーで壁を壊しているので、実は脱獄ゲームだったりする。
実はこのゲームには、アタリ社で働いていたスティーブ・ジョブズが関わっており、基盤の部品減らしの担当を任されたが、自分では出来ずに友人のウォズニアックを深夜会社に呼び丸投げする。ウォズニアックはこの部品減らしでインスピレーションを受けたことに敬意を評し、その後発売されるApple IIでブレイクアウトとパドルコントローラーを標準で付属させる。
また、Atariから拝借した部品などをつかってApple Iを作ったりとジョブズとAtariが密接に関わっていることも興味深い。このゲームがなかったら今のiPhoneもなかったかもしれないと想像すると面白い。
Breakoutのアーケード機の写真
ハンマーで壁を壊してるのが描かれている。
日本での「ブロックくずし」
日本ではタイトーがライセンス生産を開始する。1978年には喫茶店などの得意先を持つタイトーが、ゲーム機と接客テーブルが合体すれば店にとっても効率が良いと考え、考案されたのがテーブル筐体である。のちにスペースインベーダーで大ヒットを飛ばし、どこの喫茶店に行ってもテーブル筐体が置かれるようになる。
参照:http://ja.wikipedia.org/wiki/ブロックくずし
世界初の携帯型電子ゲーム機「Mattel Auto Race」
マテル社が発売した世界初の携帯出来る電子ゲームです。
1977年
映画スター・ウォーズが公開!
1977年5月スターウォーズが公開される。スペースインベーダーにも影響を与えたとされている。
宮本茂が任天堂に入社!
1977年に宮本茂が任天堂に入社しました。
任天堂からカラーテレビゲーム6と15が発売
1977年7月に任天堂からビデオゲーム業界に初進出してカラーテレビゲーム6と15が発売される。6と15の違いは、ゲームの種類が6個と15個の違いだが基本すべてポンゲームなので15種類と言っても大して変わらない。
価格は6が9,800円で15が15,000円で6が廉価版として販売され、コントローラーが本体に直付けされてたりと本体の仕様も異なる。
このカラーテレビゲームだが80〜100万台販売してヒットを飛ばした。
この2機種販売の裏には、任天堂が他社が追従出来ない価格9,800円の表記と、ユーザーには種類が豊富でお得感の強い15,000円を買わせると言う戦略が見え隠れする。ちなみに中の基盤は同じである。
この戦略で松下電器などの他社が9,800円の値段を見て参入を断念せざるを得なくなる。
Atari社からAtari2600が発売
1977年10月にAtari社から$199で発売されたROMカセット交換式タイプの家庭用ゲーム機である。Atari 2600ではなく「Atari Video Computer System」と言う名前で通称「Atari VCS」と呼ばれていた。似たような名前だったからフェアチャイルド社が先攻で発売していた「Video Entertainment System」がAtari VCSのネーミングを知ってすぐに「チャンネルF」に名称を変更している。 ソフトが自社タイトルのみの販売でやチャンネルFとの戦いなので、販売はあまり芳しくなく、1978年に80万台生産した本体が55万台しか売れず、Atari創設者のノーラン・ブッシュネルは会社を去ることになる。
しかし1980年にアーケードゲーム機のスペースインベーダを移植しこれが大ヒットし危機を脱出する。その後サードパーティーのソフトが続々販売されて、1982年にAtari2600でもっとも売れたソフト「パックマン」が登場する。パックマン人気は凄まじくディズニーなどのキャラクターを追い抜き、当時No.1の人気キャラクターとなった。
ちなみにAtari2600はアメリカの8000万世帯に対して実に2500万世帯が持っていたという驚異的なヒットを飛ばしたハードである。
参考:http://en.wikipedia.org/wiki/Atari_2600
http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_Atari_2600_games
http://ja.wikipedia.org/wiki/Atari_2600
Atari2600のゲーム集動画!
1978年
スペースインベーダー
ブレイクアウトをヒントに生まれたのがスペースインベーダーである。当時はまだ「敵」と言う概念がないゲームばかりだったが、スペースインベーダーでは「敵」と言う概念を作り上げたのである。
敵と言う概念をユーザーに与えるには、攻撃をしてくるのが一番分かりやすく、玉を発射すると言う形で表現され、これが今までのブロックを崩すだけとは段違いの緊張感をユーザーに与えた。
しかしこの大ヒットにも問題点があり、コピー商品が大量に出たことである。スペースインベーダーは今までのLSIチップなど作ったハードは作らず、マイクロプロセッサーにROMに書いた情報を送るだけと、チャンネルFやAtari2600で採用しているハードとソフトウェアを別けたやり方で作っている。その為、ROMさえコピーできれば簡単に複製出来たのである。
1979年
Activision(アクティビジョン)設立
最近やっとCall of Dutyなどで日本でも認知されつつあるメーカー「アクティビジョン」が設立される。メンバーはアタリ社にいたプログラマー集団である。当時ゲームといえばプログラマーが1人、または数人で作り上げており、作ったゲームソフトは言わばアーティストが曲と歌詞を作って販売しているのと同じであると言い、給料を上げろと不満を抱いたのがことの発端である。
ゲームソフトのみを扱うサードパーティが生まれた瞬間である。
当時、他社がソフトを作って配給するなどと言った概念もなければ想定すらされておらず、アクティビジョンのこの行為にAtari社は訴えを起こしたりする。しかし他社がゲームソフトを作ることは法的に問題なく、本体にプロテクトを施していないAtari2600には容易にソフトが作れたのである。
1980年からアクティビジョンのゲームがAtari2600に登場しだし、1982年に販売されたPitfall!は大ヒットして400万本売上、本体の販売を牽引する程にまでになる。これを目の当たりにしたAtariは和解にいたり、ロイヤリティを支払うことを条件にサードパーティの参入をゆるしたのである。
平安京エイリアン
東大生が作ったゲームとして当時アーケードでヒットを飛ばしたゲームです。
オフィシャルサイトでゲームをダウンロードすることが出来ます。
http://www.hyperware.co.jp/software/heian/default.htm
ナムコ社より80年代のゲームの土台となったギャラクシアン登場!
インベーダーにインスパイアされ作られたナムコ社初のシューティングゲームである。様々な最新技術が使われておりゲーム業界に衝撃を与えたゲームだが、難しさのあまりヒットしなかった不運のゲームである。逆に言うとやはりゲームはグラフィックや技術ではなく、現代と同じで面白さが非常に重要だと言うことが1978年にも現れていたのである。
色を見てもらえば分かると思うが、RGBカラーグラフィックを使った最初のゲームで自機、敵機、爆発などのエフェクトが非常に鮮やかである。
使われた技術の1つとしてスプライトもある。これは当時、全画面を 処理していたのに対して敵機や自機などを個別に処理し、背景と別けたことである。これにより全画面の処理をする必要はなく、動く自機や敵機の部分だけ処理すればよくなったので、CPUへの不可が軽減された。スペースインベーターが、はじめは遅く、敵が少なくなってくると動きが早くなってくるのは、敵が多い時に処理が重くて早く動けないからとも言われている。
CPUへの不可が減ったことで、敵が個別に動き回れるようにもなった。また敵機に複数の攻撃方法があり、攻撃方法は敵機の色ごとに異なっていた。
また画面を見てもらえれば分かるのだが、背景の星が動いているのである。これはスクロール技術と言われ、後のスクロールアクション、シューティングに多大な影響を与えている。
さらに音にもPSG(Programmable Sound Generator)と言われる音を作り出すサウンドチップが使われている。スペースインベーダーなどは1つの回路で1つの音しか出せず、音を新しく作るためには回路を新たに1つ作って音を出す必要があった。しかしPSGでは音源3音とノイズ1音に対して、値を送るだけで様々な合成された音を出せるようになった。
参考サイト
http://ja.wikipedia.org/wiki/ギャラクシアン
http://ja.wikipedia.org/wiki/Programmable_Sound_Generator
http://en.wikipedia.org/wiki/Galaxian
http://ja.wikipedia.org/wiki/スプライト (映像技術)
ギャラクシアンが与えたゲーム業界への影響!
ギャラクシアンは間違いなく第2世代を気づき上げたPONGやスペースインベーダーに終止符を打ったゲームである。
アタリショック後に登場する第3世代のコモドール64やMSXなどのハード設計にも多大な影響を与えており、任天堂が出したドンキーコングなども当然ギャラクシアンを深く研究し作られている。
ウルティマの原点「Akalabeth: World of Doom」発売!
ウルティマがRPGの原点として語られることが多いが、実はいきなりウルティマが生まれたわけではなく、こちらのAkalabethがウルティマ誕生に深く関わっている。
作ったのは当然のちにウルティマを作るリチャード・ギャリオットで当時19歳の大学生でした。こちらのゲームは1979年夏ごろにギャリオットが常連のだったコンピューターショップに置いてもらえることになり、ジップロックに入れられて限定販売された。この時のカバーデザインは母親である。1980年にはCalifornia Pacificより発売されている。
トップダウンビューのフィールドや3Dのダンジョン、FOODなどウルティマでお馴染みの機能がすでに実装されている。
1980年
北米で圧倒的に支持されたパックマン登場
1980年5月22日に発表されたパックマンは、当時スペースインベーダーで殺るか殺られるかの男だけの殺伐としたゲームセンターに、女性をターゲットとしたゲームを作り女性やカップルと言った新たなる顧客を獲得しようとし「女性」「食べる」をキーワードに開発されたゲームです。
点をどんどん取っていくゲームのことをドットイートゲームと呼び、元祖は1979年にセガより発売されたヘッドオンがある。
このゲームの最大の特徴は4方向レバーのみで、女性でも簡単に出来ると言ったことではなく、可愛いキャラクター達である。この黄色いキャラクターは大ヒット!特に北米でのヒットは凄まじく、当時人気だったAtari社のAsteroidsを軽く超え、四半期だけで10億ドル以上の興行収益を上げた。これは1977年に公開されたスターウォーズの$7.7億ドルを超える数字だと言われれば凄さが分かるだろう。
この空前のヒットにミュージシャンも黙ってはいなく、歌まで作ってミリオンヒットを飛ばしています。下記がその歌である。
参考サイト
http://ja.wikipedia.org/wiki/パックマン
http://en.wikipedia.org/wiki/Pac-Man
http://www.whatson.uk.com/blog/?p=2787
http://www.guinnessworldrecords.jp/Search.aspx?q=pac-man
パックマンの記録
ライセンスグッツは400種類以上販売され、1982〜1983年にはTVアニメが放送され最高視聴率56%を獲得!
2005年には、1987年までに29万3822台販売したとして、もっとも成功したアーケードゲーム機としてギネスに登録される。
2010年のギネスでは最も知られたゲームキャラクターとしてパックマンが選ばれている。
2010年5月22日に30周年記念として、Googleのロゴがパックマンになり、パックマンが遊べた。現在もこちらのページから遊べる
このGoogleトップページでのパックマンは、人々がパックマンに夢中になり約480万時間消費され約1億2000万ドル分の生産性が失われたと言われている。
パックマンのハイスコア
パックマンの理論値は3,333,360点で、255面までノーミスで進み、次のバクステージはクリア不能だが、バグってるステージ半分がキャラが死ぬごとにドットが復活するので、それを全部とって死ぬと理論値の最高点になる。
この理論値を達成したのが、ビリー・ミッチェルで1999年7月3日に約6時間掛けて達成している。 2009年にはデビット・レイスが3時間41分22秒で最速記録を打ち立てている。クリアーは6人目となる。
面白い話として、1982年に当時8歳の少年が、6,131,940点を出して当時のアメリカ大統領ロナルド・レーガンから祝福の手紙を受け取っている。しかしこの得点はクリアー出来ない256面をクリアしないと取れない点数なのである。1999年ビリー・ミッチェルは2000年1月1日までに256面をクリアーした者に10万ドルの賞金を払うと言ったが、クリアー出来た者は誰もいなかった。
任天堂のクソゲー「Radar Scope」
これが大量に売れ残らなければ、ドンキーコングもマリオを生まれてなかったもしれない伝説のゲーム!
宮本茂も開発に少し関わっている。詳しくは1981年のドンキコングを参照!
参照元
http://en.wikipedia.org/wiki/Radar_Scope
任天堂よりゲーム&ウォッチが発売される!
1980年4月28日に任天堂より発売された携帯型液晶ゲーム機である。横井軍平が新幹線の中でポケットサイズの電卓を叩いて遊んでるビジネスマンを見て発案されたとされる。ビジネスマンの通勤の暇つぶし用にこっそりポケットに入れて持てる時計機能が付いているゲームだったが、これが子供に大ヒットしてゲーム性が強いゲーム&ウォッチが登場する。世界中で合計4340万台売る大ヒット商品となる。
下記のサイトで当時のゲーム&ウォッチを忠実に再現したゲームがWEBから遊べる
http://www.pica-pic.com/
参照元
http://www.nintendo.co.jp/n10/interview/game_and_watch/vol1/index.html
http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/special/20080922/1018969/
http://ja.wikipedia.org/wiki/ゲーム&ウオッチ https://twitter.com/gunpei_bot/statuses/275464381159047171
十字キーの誕生!
1982年に当時アーケードで人気を博していたドンキーコングの移植が考案された。アーケードではジョイスティックが採用されおり、これをそのまま持ってくるのは無理があるので、開発当社は乳房の形をしたボタンを考案し、乳房の先を押して操作する試作機を作るが上手くいかず、1週間の試行錯誤の末ようやく十字ボタンが開発された。
この発明は後に発売されるゲーム機に多大な影響を与える。ビル・ゲイツが「次世代のマルチメディア機器はキーボードではなくて十字キーにする」と言わしめたほどだ。
またニンテンドーDSでお馴染みのマルチスクリーンを採用している。マルチスクリーンはニンテンドーDS登場の実に20年以上前から考案され販売されていたのである。
横スクロールのシューティング「Defender」登場!
1980年にWilliamsが作った世界初の横スクロールゲームである。スクロールの概念の他に、一応地上の概念があり、地上では人間が歩いておりエイリアンが拐おうとするのを阻止する。誤って人間を打つと殺してしまう。描かれてる地上に触れてもやられてりはしない。
1981年
アーケードにドンキーコングが登場!
1981年に登場した任天堂が初めてヒットさせたアーケードゲーム機ドンキーコングが登場!ゲームデザイナーは宮本茂(当時28歳)で開発には横井軍平も関わっている。宮本氏はポパイ、美女と野獣、キングコングなどからインスパイアされ作られている。Jumpman(後のマリオ)が巨大な猿にさらわれたレディーを助けると言う方向性に固まり企画がスタートする。
1980年に荒川實がニューヨークにNintendo of Americaを設立し社長に就任する。アメリカでの最初の事業は日本のアーケード機「Radar Scope」の輸入販売だったが大量に売れ残ってしまった。どうするか悩んだ末、中のROMを変えて販売しようと思い付き、本社に新しいゲーム開発を依頼したが相手にしてもらえず、まったく無名の宮本茂がその担当を任されることになる。ちなみに予算は10万ドルである。
はじめは「Radar Scope」を調整する案だったが、Rader Scopeのハードウェアを使いつつ全く新しいゲームを作ることになる。
完成品をプレイしたアメリカの任天堂スタッフは不安の色を隠せずにいたが、なんと大ヒットして任天堂を世界に知らしめた。
ドンキーコングの海賊版問題!
ROMをコピーするだけで簡単にコピー出来てしまう海賊版問題は人気ゲームの悩みのタネだったが、弁護士のハワード・リンカーンがこれを徹底的に訴えた。キングコング裁判での勝利で任天堂の発言力は一層強くなり、コピーガードなどもこの頃から真剣に考えられるようになった。
ちなみに海賊版ってどの程度なのって比較は下記の映像をご覧ください。上がドンキーコングで下がクレイジーコングです。
参照サイト
http://ja.wikipedia.org/wiki/ハワード・リンカーン
http://ja.wikipedia.org/wiki/荒川實
http://en.wikipedia.org/wiki/Donkey_Kong_%28video_game%29
http://en.wikipedia.org/wiki/ドンキーコング
コナミよりグラディウスの原点「スクランブル」登場!
横スクロールの名作グラディウスシリーズの実は1作目とされるゲームである。スクロールではDefenderの方が早いが、強制横スクロールと地上に触れると実機がやられる概念はこちらが初である。
武器が2種類あり前方への玉の発射と地上へのミサイル投下、燃料の概念など新しい試みが随所にある。
参照サイト
http://ja.wikipedia.org/wiki/スクランブル (ゲーム)
Apple IIでRPGの原点「ウルティマ」発売
1980年9月2日に著作権登録し、1981年6月に発売された。Akalabethが正統進化されている。特に素晴らしいのがフィールドで、トップダウンビューは同じなのだが、タイルベースのグラフィックを使っている点である、これはのちに発売されるドラゴンクエストなど、ほとんどすべてのRPGに採用されている。このタイルベースのグラフィクはウルティマが世界初となる。
https://youtu.be/XFh0ILCeWos
参照元
http://en.wikipedia.org/wiki/Ultima_I:_The_First_Age_of_Darkness http://ja.wikipedia.org/wiki/リチャード・ギャリオット
エポック社のカセットビジョンが登場
1981年7月30日に13,500円と言う当時4、5万していた他社の本体と比べて圧倒的な低価格で発売されたロムカセット交換式のゲーム機である。その低価格がうけて日本で約40万台販売され、最初に成功を収めたゲーム機である。
本体の低価格実現には訳があり、なんと本体にCPUを積んでないのである。CPUはROMカセットの方に積んでいるのだが、ROMカセットの価格も4,980円とリーズナブルな価格は謎である。
CPUをROMカセットに積んでいるので、CPUを強化してどんどんいいゲームが出せれば良かったのだが本体の都合上、解像度が54×62程しかなく棒人間程度のキャラクターしか表示できず非常に残念な仕様となっていた。
参照元
http://ja.wikipedia.org/wiki/カセットビジョン
Apple IIでRPGの原点「ウィザードリィ」発売
1981年9月に発売されたロバート・ウッドヘッドとアンドリュー・グリーンバーグの2人がDungeons & Dragonsをベースに作り上げたゲームである。3DダンジョンRPGの始祖と言われている。1981年6月30日までに2万4000本売り上げ、北米でもっとも最も売れたコンピューターRPGのひとつである。
1975年で紹介した「PEDIT5」がHPや経験値、レベルなどを扱いだしたが、ウィザードリィでは業界初のパーティーシステムを導入し、複数人でのダンジョン探索が可能となった。初のカラーグラフィックを作ったRPGでもある。
HP、ACの他に6つの能力値、11の種族、3の性格、15の職業、転職、呪文、転送、街、酒場、商店、宿、寺院、回転床、落とし穴など、RPGの要素がほとんどすべて入っている。
また最大の特徴としてロストがある。死んだキャラは寺院や呪文で蘇生させることができるが、蘇生に失敗して灰になり灰からさらに蘇生に失敗するとロストとなりキャラが消滅する。
一見面白そうなゲームに見えるが、今のユーザーから見ればクソゲー以前にプレイする気も起きないほど地味である。
参照元
http://ja.wikipedia.org/wiki/ウィザードリィ http://en.wikipedia.org/wiki/Wizardry
1982年
Custer's Revenge
1982年10月13日に発売された世界初のアダルトゲームである。"NOT FOR SALE TO MINORS"のラベルが貼られており、発売早々に各メディアから非難をあびる。
プレイヤーは主人公のカスターを縛り付けられている、ネイティブ・アメリカンの女性ところまで移動させセックスさせるのが目的だ。
この差別的なゲームに様々な人権団体が抗議し販売禁止などの事態も起こった。メディアが取り上げたことによりゲームは8万本売れたが、その後のアタリショックで会社は潰れている。
参照元
http://ja.wikipedia.org/wiki/カスターの逆襲
アタリショック(North American video game crash)
1983年辺りには32億ドルとピークに達していた収益が1985年には約1億ドル(約97%減)に減少した事件である。
この大惨事のが起きた理由は様々な原因があり答えは出ていない。原因となった事柄を1つ1つ紹介していこうと思う。
家庭用ゲーム機の過剰投入
Atari 2600、Atari 5200、Bally Astrocade、ColecoVision、Coleco Gemini、Emerson Arcadia 2001、 Fairchild Channel F System II、Magnavox Odyssey 2、Mattel Intellivision、Sears Tele-Games systems、Tandyvision、VectrexさらにOdyssey3、Atari 7800とゲーム機だけでこれだけ乱立していたのである。
ご覧のようにハードが10個以上乱立しているのである。ゲームに詳しいユーザーならともかく、クリスマスにデパートに買いに来た、何も分からない親御さんが選ぶにはあまりにも難しい。一応ゲーム雑誌などは当時販売されていたが、ゲーム雑誌を買って入念に選ぶなんてことは一般のユーザーならまずしないことだと思う。
クソゲーと評される「E.T. the Extra-Terrestrial」で赤字に!
1982年12月のクリスマスシーズンに発売された悪名高きクソゲーである。1982年6月にスティーブン·スピルバーグとユニバーサル・ピクチャーズに交渉開始!1983年7月下旬にアーケードとコンソール機でのワールドワイドでの独占販売のライセンスを得る。ライセンス料は2000〜2500万ドルと言われている。
1982年7月27日に「Yars' Revenge」やインディージョーンズを題材にした、映画を使った初のゲーム「Raiders of the Lost Ark」など名作を作っいるHoward Scott Warshawがスピルバーグのご指名により制作を任させることになる。ここまで聞くとクソゲーが生まれる可能性は低いような気もするのが、問題は開発期間である。5週間である。7月27日言われ、9月1日までにはROMの生産を開始しないとクリスマスシーズンに間に合わないとんでもないスケジュールであった。ちなみに「Yars' Revenge」で7ヶ月、「Raiders of the Lost Ark」で6ヶ月掛かっている。
12月に発売され12月、1月と大ヒットを飛ばし150万本販売しました。これはAtari2600で最も売れたソフトの1本に入る程である。しかしこの150万本の大ヒットでもAtariはもっと売れるだろうと予想しており約350万本の過剰在庫を抱え赤字を出す。これがアタリショックの原因の1つだとも言われている。
1983年以降のキラーソフトの不在!
1982年にはミリオンヒット飛ばす良質なキラーソフトが何本が発売されていたが、1983年以降はまったく発売されてないのである。
1982年クリスマス商戦は個人的には成功していた方だと思っているが、その翌年1983年から面白いソフトがパタッと出なくなってしまったのである。当然買うソフト買うソフトがクソゲーで、ユーザーはもうダメだと2度と買わなくなっていったのではないかと思われる。
しかも1983年はAtariで約30本、サードパーティーで170本と作られておりAtari2600で発売されたソフトが一番多い年でもある。考えてみて欲しい2012年のプレイステーションアワードではミリオンヒットなしでボロボロである。これが仮にソニー1強だとしたら、面白いソフトが1年間出てない遊びを翌年も果たしてするだろうか。そう考えるとアタリショックの原因はこのキラーソフト不在が有力ではと考えている。
ハードが多くて購入するユーザーが迷うと若干矛盾しているのだが、実際当時はAtari2600の1強でドンキーコングの再現性の高い移植で人気を博したColecoVisionは1982から撤退する1984年までに200万台販売している。ちなみにVitaは2011年12月に発売して2012年10月に100万台突破で大敗退となっている。完全に大失敗した3DOは200万台となっている。
クソゲーなどのレッテル
日本における洋ゲーの扱い、2000年前後の洋ゲーの扱いは散々たるもので洋ゲー=クソゲーと言う式が成り立っていたが、実際はDiablo2、Half-Life、Unreal Tournamentなど和ゲーにはない名作が沢山でているのである。それなのに洋ゲー=クソゲーと言う式を拭うのに約10年程要している。この洋ゲーを見なかった10年は失われた10年っと言っても過言ではない。この10年海外メーカーは急成長を遂げる。急成長を遂げた要因としてエンジンのオープン化、MODなどで素人開発陣の母数の増加と成長が挙げられるが、この辺をしっかり語ってる日本人はごく僅かで、日本ではほとんどなかったことにされている。見て見ぬ振りをする鎖国的な習慣はファミコン、プレステ1などの時代は良かったのだが、本体の性能がどんどん上がっていくに連れて逆にこれが仇となって現在は洋ゲーと和ゲーの逆転が数多く見受けられる。
話が脱線しましたが、クソゲーと言うレッテルが一度貼られると払拭するのには膨大なコストと時間をようするのである。その為、1年間何もヒットを出さないようなハードはもはやゴミでしかなく、1度離れた心を戻すには至らなかったのがアタリショックの原因ではないだろうか。
Atari2600からの後継機の不在
Atari2600が登場したのが1977年10月で、1983年に崩壊しているので約6年間続いてた。この6年にピンと来ないことはないだろうか。最近の歴史に当てはめるとハードが変わる周期なのである。PS1が1994年、PS2が2000年、PS3が2006年と6年周期で発売している。他のメーカーも大体この周期でハードを出している。2012年、2013年はどうなるかは読めないが・・
1983年には、やはりAtari2600の後継機が必要だったのだが、1980年にIntellivisionが約200万台、1982年にColecoVisionが約200万台、Atari5200は約100万台と後継機が大失敗している。特に正統後継機であるAtari5200は1982年には出る予定はなく入念に作られていたのだが、ColecoVisionが1982年のクリスマスシーズンに発売されるという情報が入るやな否や、今まで作っていたAtari5200をなくし、無理やりホームコンピューターのAtari400/800をゲーム仕様にし、クリスマスシーズン発売に間に合わせたのである。
一応発売されたAtari5200はスペック的には問題なかったが、コントローラーは故障が多くジョイスティックを採用しているがジョイスティックにスプリングが使われておらず、上に傾けたあとに手を離しても中央に戻らないと言う非常に残念な仕様であった。Atari2600との互換については一切互換がなかったが、のちに2600が動くカートリッジアダプターが発売されるが5200の初期型には対応してないという、行き当たりばったりで何も考えてない感が凄まじい。コントローラーの故障率の高さはサードパーティ製のパッドで解決、互換性はファミコンでもないので百歩譲っていいとして、最大の失態はAtari2600との同時販売である。後継機の5200を出すにも関わらずAtari社は2600押しなのだE.T.、パックマンの発売が証拠である。一体何を考えているのかさっぱり分からない、売れなくて当然である。
パックマンの移植の低さと過剰在庫
アーケードで空前の大ブームを巻き起こしたパックマンが1982年3月に移植発売されたのだが、再現が低くお世辞にもいい出来とは言えなかった。しかしAtari2600で一番売れたソフトで700万本販売できた!これだけなら大成功でいいのだが、Atariの上層部はハードを持っている人、全員が買ってくれるだろうと見込んでおり、1200万本生産しており、なんと500万本の過剰在庫を抱えているのである。
この過剰在庫でE.T.と同じくAtari社に大きな損失をもたらした。
アタリショックとは
以上を鑑みた上でアタリショックとは、1977年にAtari2600から発売されて6年経っており、アーケードゲームなどよりかなり見劣りし、出された後継機がどれも不発、5200で言えば2600押しで5200への移行に失敗、1983年以降のキラーソフトの不在、さらにE.T.、パックマンでミリオンヒットを飛ばしているのに過剰在庫で赤字を出し経営悪化を招き次第に衰えていった。以上が1983年辺りには32億ドルとピークに達していた収益が1985年には約1億ドル(約97%減)に減少したアタリショックの原因ではないかと憶測する。要はAtari社の度重なるミスで勝手に自滅してしまったのが事の結末である。
ColecoVisionの発売に惑わされず、2600との互換性のある5200を作り、2600から5200にユーザー移行をおこない、アーケードゲームの忠実移植とキラータイトルを生めれば、アタリショックは起こらなかったのかもしれない。
参照サイト
http://en.wikipedia.org/wiki/Atari_5200
http://www.giantbomb.com/atari-5200/60-67/
http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_best-selling_game_consoles
http://en.wikipedia.org/wiki/Pac-Man_%28Atari_2600%29
http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_Atari_2600_games
http://en.wikipedia.org/wiki/ColecoVision
http://www.ign.com/articles/2008/08/26/top-10-best-selling-atari-2600-games
http://ja.wikipedia.org/wiki/E.T. (アタリ2600)
http://ja.wikipedia.org/wiki/アタリショック
http://en.wikipedia.org/wiki/North_American_video_game_crash_of_1983
1983年
7月15日に任天堂がファミリーコンピュータを発売
そして伝説へ・・・